マルコ・ポーロが中国から麺を持ち帰った、という話は史実ではありません。彼が旅から戻る百四十年ほど前、1154年のシチリアには、すでに乾麺を「輸出するほど」作る町がありました。そしてパスタがトマトと出会うのは、そこからさらに六百年後です。
パスタの歴史は、ひとつの発明の物語ではありません。生地・乾燥・機械・ソース・法律という別々の系譜が、別々の時代に合流してきた歴史です。確認できる史料だけを年代順に並べると、いまの一皿がどの分岐から出てきたのかが見えてきます。
- ラガーナ小麦粉と水の薄い生地を重ねて焼く料理として記録。
- 現代のパスタ成形した生地を湯で茹でる工程が料理の前提になる。
名前の系譜は続くが、古代の調理法は現代の茹で麺と違う。
古代ローマにあったのは「パスタ」ではなく「ラガーナ」だった
小麦粉と水を練った薄い生地を、ローマ人は「ラガヌム(laganum)」と呼びました。ホラティウス(前1世紀)が詩に書き、ケルスス(1世紀)が医学書で二度触れ、アピキウス(3〜4世紀)の料理書には調理法が二つ載っています。ラザニアという名前は、ここから来ています。
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ただし「パスタの起源」と言い切るのは早い。アピキウスの記述は層に重ねて窯で焼くもので、揚げる調理も知られていた一方、茹でたという記述が古代の文献に一度も出てこないからです。食物史家ルカ・チェザーリ(後述のカルボナーラ史料を確認した本人)は、2020年のガンベロ・ロッソ寄稿でこれを「古代の史料が水での加熱について沈黙しているのは、いまだ謎のままだ」と書いています。ただし同記事はケルススの記述から茹での存在を推定し、窯焼きと茹では共存していただろうとも書いています。確認できないのは記録であって、茹でなかったことではありません。名前は受け継がれた。調理法は受け継がれたと確認できていない。ここが最初の分かれ道です。
同じ理由で、チェルヴェーテリのエトルリア人墓地「レリーフの墓」(前4世紀、1847年発見)のレリーフを「パスタ製造の最古の証拠」と紹介する記事にも乗るべきではありません。麺棒に似た道具が彫られているとする紹介がありますが、イタリア語版Wikipediaの浮彫の記述に製麺具は挙がっておらず、パスタ専用の道具と確定する根拠はありません。
ただし生地を手で伸ばして切る技術そのものは絶えていません。卵黄を大量に打ち込んで極細に切るピエモンテのタヤリンと白トリュフのような手打ちの系譜は、このあと始まる乾麺の産業史と別のレーンを並走し続けます。
- 乾燥生地を作るシチリアの集落でイトリーヤがまとまって生産された。
- 保存して運ぶ乾麺の保存性を使い、島外へ運べる食品にする。
- 各地へ輸出地理書が地域産業としての広がりを記録に残した。
12世紀のシチリアでは、乾麺はすでに輸出品だった。
1154年、アル=イドリースィーがシチリアに見た「輸出される乾麺」
年代がはっきり特定できる最初の乾麺は、シチリアにあります。
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アラブの地理学者アル=イドリースィーは1154年、ノルマン王ルッジェーロ2世のために編んだ『ルッジェーロの書』で、パレルモ東方、テルミニ(現テルミニ・イメレーゼ)西隣の町トラビアをこう記しました。「テルミニの西に、トラビアと呼ばれる心地よい集落がある……そこには田園に巨大な建物があり、膨大な量の itriyya(イトリーヤ)を作って、あらゆる場所へ輸出している」。
効いているのは「輸出」という語です。この時点ですでに、家庭の手仕事ではなく、保存と輸送を前提にした産業として乾麺が成立していた。水分を抜いてあるからこそ船に積める。乾麺は地中海貿易の商品でした。
シチリアが初期史の中心地だったことは、島の郷土料理にいまも残っています。レーズンと松の実とサフランを合わせるイワシのパスタには、アラブ由来の甘みと香辛料の組み立てが化石のように残っている。トマト・アーモンド・バジルを生のまま砕くトラーパニ風ペスト、揚げ茄子と羊乳チーズのカターニア料理ノルマ、甘酢のコントルノカポナータも、この島の交差点性から出ています。スパゲッティ・アッロ・スコリオについてイタリア語版Wikipediaは「シチリア発祥の可能性が高い」としつつ、異説も残ると留保しています。
- 財産目録個人の遺産に、マカロニ入りの籠が具体的に記された。
- 保存食家庭で保管できる乾いた麺として価値を持っていた。
- 港町ジェノヴァ海上交易の街に麺が届き、生活へ入ったことを示す。
輸出記録の次に、乾麺は個人が持つ保存食として現れる。
1279年ジェノヴァ——「マカロニでいっぱいの籠」
文書に残る最古級のパスタは、料理書ではなく遺産目録に出てきます。1279年2月4日、ジェノヴァの公証人ウゴリーノ・スカルパが作成した軍人ポンツィオ・バストーネの遺産目録に、「bariscella plena de macaronis(マカロニでいっぱいの籠)」という一行があるのです。
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籠に入れて相続財産に計上されている以上、生麺ではなく日持ちする乾麺だったと考えるのが自然です。ただし当時の「マカロニ」はニョッキ状の小さなパスタを指すことが多く、この目録のものも現代の長い乾麺そのものではなかった可能性が高いとされます。マルコ・ポーロが東方から帰還したとされるのは1295年。この目録は、それより16年前のものです。
ジェノヴァという地名は、この先パスタ史を二度混乱させます。ひとつはリグーリアの生バジルのジェノベーゼ(バジルのペスト)。もうひとつは、名前に反してナポリの料理であるジェノヴェーゼ(ナポリ風)です。後者は牛肉と大量の玉ねぎだけを何時間も煮る、トマトを一切使わない白い肉ソースで、なぜジェノヴァの名を冠するのかは確定していません。Gambero Rosso は、15世紀アラゴン支配下のナポリ港の酒場にいたジェノヴァ人説、「オ・ジェノヴェーゼ」という渾名の料理人説を並べたうえで、これらを「想像力に富んだ仮説」と呼び、19世紀の料理書に「アッラ・ロンバルダ」「アッラ・ボロネーゼ」と並んで存在した地名スタイル表記のひとつにすぎない、という見方を最も穏当としています。
- 先行する記録ポーロ帰還より前に、シチリアの乾麺生産が記録済み。
- 業界誌の創作米国の販促記事が中国から麺を持ち帰る物語を作る。
- 映画で定着後の映像化で、創作が広く知られる起源説になった。
年表を並べるだけで、マルコ・ポーロ起源説は成立しない。
マルコ・ポーロは何も持ち帰っていない——1929年、広告が作った伝説
では、あの有名な話はどこから来たのか。出所は特定されています。1929年、アメリカのパスタ業界誌『Macaroni Journal』が「A Saga of Cathay」という販促記事を載せました。マルコ・ポーロの船員が中国で麺を見つけた、という筋書きの創作です。Pasta Almanac はこれを「スパゲッティを食べ始めたばかりの国に向けたマーケティング原稿であり、それが何十年も繰り返されるうちに民間伝承として固まった」と書いています。
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1154年のシチリア、1279年のジェノヴァという物証がある以上、13世紀末の帰還者が持ち帰る余地はありません。むしろ14世紀半ばには、パスタはもう文学の中でご馳走の象徴になっています。ボッカッチョ『デカメロン』第8日第3話の空想の国ベンゴーディの描写を、原文から引きます。「すりおろしたパルミジャーノチーズだけでできた山があり、その上には、ただマッケローニとラヴィオーリを作り、去勢鶏のブロードで茹でては下へ投げ落とす、それだけをして暮らす人々がいた」。
起源と地域差を扱うPasta Grammarのように、誇張を避けて史実と伝承を切り分ける作り手が支持されるのは、この分野に俗説がこれだけ堆積しているからです。
- 生地を練る人の足や機械で硬い生地を均一に練る工程を整える。
- 圧搾して成形圧力をかけてダイスから押し出し、形をそろえる。
- 乾燥し量産気候と工程の改良で、都市規模の乾麺生産へ進む。
練り・圧搾・乾燥の機械化が、ナポリの乾麺産業を育てた。
ナポリが乾麺の都になるまで——圧搾機、足踏み、そして「青銅の男」
乾麺の中心はシチリアからカンパーニアへ移ります。17世紀のナポリには「トルキ(torchi)」と呼ばれる原始的な圧搾機があり、のちに捏ね機とプレス機が確立します。1740年にはヴェネツィアで最初のパスタ工場の営業許可が発行されました。規模の伸びは数字で残っていて、ナポリ市内の乾麺店は1700年に約60軒、1785年には約280軒。85年で4.6倍です。
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もっとも、その現場は現代の衛生観念から遠いものでした。生地は職人が足で踏んで捏ねていたのです。これを不衛生と見た技師チェーザレ・スパダッチーニが開発したのが「青銅の男(uomo di bronzo)」——青銅の羽根を持つ手動の捏ね機です。Museo Medagliani は、これを「足でパスタを捏ねるという不作法な方法」を廃するための機械とし、宣伝パンフレットの刊行を1833年ナポリ、工場の建設に約10年を要したと記録しています。誰が依頼したかは同ページには書かれておらず、ブルボン王家の関与は語られるものの、フェルディナンド2世説とフランチェスコ1世説が並立しています。
産業化した南でも手打ちは消えず、プーリアのオレキエッテとチーマ・ディ・ラーパのように機械に置き換わらなかった形が残ります。逆に、乾麺という工業製品を前提にしながら「茹でない」という反則を思いつく料理も、のちに出てきます(後述のアッサシーナです)。
- トマト到来新大陸から渡るが、当初は観賞用として見られた。
- ソースになる肉などへ添えるスペイン風ソースとして料理書に載る。
- 麺と合流後の料理書で、トマトソースとパスタが同じ皿になる。
トマトの到来から、パスタの定番ソースになるまで時間があった。
トマトと出会うまで、二百年以上かかった
トマトは16世紀にアメリカ大陸からヨーロッパへ渡っています。にもかかわらず、パスタとトマトの組み合わせが文書に現れるのは二百年以上あとです。
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確認できる最初の記録は、ローマの料理人フランチェスコ・レオナルディが1790年に著した『L’Apicio Moderno』。ナポリ方言のレシピ「ヴェルミチェッリとトマト(Vermicelli con lo pommodoro)」は、イッポリト・カヴァルカンティ公『Cucina teorico-pratica』のナポリ方言付録に載ります。Italy Heritage はこれを1839年の第2版付録としますが、1837年の初版を指す媒体もあり年表記は割れています。なお同じ Italy Heritage はカヴァルカンティを「パスタとトマトソースを結び付けた人物」とも書きますが、文書上の初出としてはレオナルディの記述が先行します。いずれにせよ19世紀前半です。
つまりポモドーロもプッタネスカもアラビアータも、3〜8時間かけて塊肉を煮るナポリ風ラグーも、900年の歴史のうち後ろ2割でしか成立しません。トマトは新参者です。
この時間差は、いまも料理の並びに残っています。ローマのカチョ・エ・ペペとグリーチャにトマトは入らない。ヴェネトのビゴリ・イン・サルサは玉ねぎとアンチョビだけで、肉を断つ「質素な日」の一皿でした。残ったチーズを溶かすだけのクアトロ・フォルマッジも、トマトに依存しない組み立てです(発祥地は特定されていません)。「猟師風」の鶏のカッチャトーラももともとトマトを使わない煮込みでしたし、逆に茄子のパルミジャーナはトマト以後の南イタリアを代表しながら、プーリア・カンパニア・カラブリア・シチリアのどこが発祥かは特定されていません。
- 押し出しを機械化均一な圧力と形で、乾麺の量産性を高めていく。
- 乾燥を制御天候任せの乾燥から、管理された製造工程へ移る。
- 品質を法定原料と製法の条件が、乾麺の定義として制度化される。
工業化の後、乾麺は原料と製法を法律で定義される食品になった。
19世紀の機械化、そして法律になった乾麺
19世紀のグラニャーノは、町そのものが乾燥装置でした。メインストリートの via Roma は日光と海風が通り抜けるよう改造され、「a ramp’ d’o vient(風の道)」と呼ばれます。1845年7月12日、ナポリ王フェルディナンド2世はグラニャーノの製造業者に宮廷へ長いパスタを供給する特権を与えました。19世紀半ばには就労人口の約4分の3が乾麺産業に従事し、100を超える工場が1日1000キンタル(10万kg)以上を生産していたと記録されています。
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産地の物語は二つの制度に着地します。ひとつは「パスタ・ディ・グラニャーノ」のIGP登録——イタリアおよび欧州でパスタに与えられた最初のEU品質認証とされます。登録したのは2013年10月2日の欧州委員会実施規則 (EU) 969/2013 で、EU官報 L 270 への掲載は10月11日です(10月14日はイタリア農水省が生産規約を出した日で、EUの認定日ではありません)。
もうひとつが乾麺そのものの法定義です。大統領令 DPR n.187(2001年2月9日) は、乾燥パスタをデュラム小麦のセモリナ(またはセモラート)と水だけで作る製品と定め、セモリナから作る「パスタ・ディ・セモラ」について、水分は最大12.50%、タンパク質は最小10.50%、酸度は最大4度(セモラート使用なら11.50%・5度)という数値基準を置きました。「乾麺は小麦粉と水だけ」は伝統的な言い回しではなく、条文です。
- 地域の料理家庭や店で揺れていた作り方に地域名が結び付く。
- 団体が記録商工会議所や業界団体が材料と手順を文書へ残す。
- 流派は残る公式化の後も、家庭と店の工程差は消えずに続く。
公式レシピは基準を作ったが、現場の分岐を止めなかった。
20世紀、皿ごとに「公式レシピ」が生まれる
20世紀に起きたのは産業化ではなく定義の固定化でした。そしてその「公式」は、思ったより新しく、思ったより揺れています。
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ボロネーゼ。 ボローニャの正式な「ボロネーゼ用ラグー」のレシピは、1982年10月17日にアッカデーミア・イタリアーナ・デッラ・クチーナのボローニャ支部がボローニャ商工会議所に寄託しました。知られていないのは続きで、2023年4月20日、41年ぶりに改訂版が寄託されているという事実です。改訂版は「許容される変更」と「許容されない変更」を明文化し、ワインの代わりのブランデー(Brandy in sostituzione del vino)、とろみ付けの小麦粉(Farina per addensare)を禁止項目に名指ししました。公式レシピは石板ではなく、更新される文書です。
カルボナーラ。 定番の起源譚は「1944年のローマ解放後、アメリカ兵の卵と乾燥ベーコンから生まれた」。根拠は従軍料理人レナート・グアランディが同年9月22日にリッチョーネで米英軍の会食用に作ったという本人の証言だけで、史料的な裏付けは強くありません。そして2026年、オランダ人記者 Edwin Winkels と Janneke Vreugdenhil が、1939年8月23日付のオランダ語新聞『De Koerier』(当時のオランダ領東インドで発行)に、ローマ・トラステヴェレの2軒のトラットリアを比べる記事を発見します。「Alfredo」という店の看板料理として、スパゲッティ・アッラ・カルボナーラが挙がっている。米兵のローマ進駐より5年早い。パルマ大学で食の歴史を教える Alberto Grandi と、料理史家の Luca Cesari が確認し、Cesari は「カルボナーラの歴史は全面的に書き直す必要がある」と述べました。
さらに、イタリア国内の雑誌に初めてレシピとして載ったのは1954年8月号の『La Cucina Italiana』ですが、材料はスパゲッティ400g・パンチェッタ150g・グリュイエール100g・ニンニク1片・卵2個。グアンチャーレでもペコリーノでもありません。しかも Gambero Rosso によれば、その2年前の1952年、シカゴのレストランガイド『Vittles and Vice』にすでにベーコンとパルミジャーノのカルボナーラが載っていた。「イタリアで最初の活字」より、アメリカの活字のほうが早いのです。
アルフレード。 ローマのアルフレード・ディ・レリオが1907年か1908年に作った原型は、フェットチーネ・若いパルミジャーノ・バターの3つだけでした。1920年代初頭にメアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが訪れて有名になり、アメリカで生クリームや鶏肉が加わって別料理へ枝分かれします(イタリアでは生クリームも追加材料も使いません)。フェットチーネ・アルフレードは、原型と海外版の分岐を最もはっきり見せる標本です。
ウォッカ。 ウォッカのパスタの起源には米ニューヨーク説(1979年、Orsini’s)、伊ボローニャ説(1973年開業の Dante)、伊ローマ説がありました。Gambero Rosso の調査はニューヨーク説を裏づける証拠なしと結論し、ローマの料理人マリオ・ゾルツェットが1970年の大阪万博イタリア館で、閉店後に振る舞ったパスタに、唯一親しかったロシア館のスタッフがウォッカを持ち込んだのが起源で、帰国後にローマのタヴェルナ・ジューリアで完成させた、というローマ説を最有力としました。日本の万博が、ローマの一皿の起点になっている。
アッサシーナ。 アッサシーナは1967年、バーリの店 Al Sorso Preferito で、フォッジャ出身の料理人エンツォ・フランカヴィッラが即興で作ったとされます。麺を茹でずに鉄フライパンでトマトのブロスだけを吸わせ、焦がす。辛さに客が彼を「人殺し(assassino)」と呼んだのが名の由来です。郷土料理は千年前のものとは限りません。
- 米兵の食べ方茹で麺をケチャップで和える簡便な一皿が横浜へ入る。
- ホテル版生と水煮トマト、ペーストを使う料理へ再設計する。
- 喫茶店版ケチャップ味が別の店を経て全国の定番へ広がる。
日本のナポリタンは、元祖と普及版でソースが異なる。
戦後の日本——ケチャップを使わなかった元祖
日本のパスタ史は、この年表のいちばん新しい端にあります。
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ナポリタンの発祥とされる横浜ホテルニューグランドの2代目総料理長・入江茂忠が考案したバージョンは、トマトケチャップを使っていません。生トマト・水煮トマト・トマトペーストの3種を使うトマトソースの料理でした。GHQに接収されたホテルで米兵が携行食のスパゲッティに塩・胡椒・ケチャップを和えて食べていたのを見て、入江が「ホテルで出すにふさわしい一皿を」と考案したのがこのトマトソース版です。全国に広まったケチャップ味は、その後に横浜のセンターグリルが開発した別ルートの系譜でした。政府広報オンラインによれば、ホテルが「スパゲッティ ナポリタン」としてメニュー化したのは、約7年の接収が解除された後の1950年代でした。
つまり日本のナポリタンは、19世紀ナポリのトマトソースの系譜と、20世紀アメリカの携行食の系譜が横浜で交差してできています(詳しくはナポリタン発祥のホテルは、ケチャップを使っていなかった)。そこから枝が伸びて、乾麺という工業製品を日本の調味料に接続する明太子パスタの系統が生まれる。イタリアの年表の外側に、もうひとつの年表があります。
- 熱の分岐カルボナーラは直火、湯煎、余熱の三系統が並ぶ。
- 時間の分岐同じ公式料理でも、煮込み時間は流派で大きく動く。
- 材料の分岐玉ねぎやトマトの有無が、現在も料理名の境界を作る。
歴史上の合意は、今のレシピを一つには固定していない。
歴史は、いまも作り方の中に残っている
年表を追い終えて分かるのは、「伝統」と呼ばれるものの多くが最近の合意だということです。そして合意の外側では、いまも作り方が割れ続けている。PASTAFONIAの比較データには、それが数字で出ます。カルボナーラのシェフ9人は、卵液の加熱方法で直火3人・湯煎/蒸気3人・余熱のみ3人にきれいに三分割されます。ボロネーゼは、1982年に公式レシピが商工会議所に寄託されたはずの料理でありながら、日髙良実の30分からJ. Kenji López-Altの約5時間(羊肉・鶏レバー・フィッシュソースを加える)まで、所要時間が10倍開きます。アマトリチャーナにいたっては、玉ねぎを入れるのは掲載6人のうち2人だけ。この分岐は玉ねぎを入れるのは6人中2人だけ:アマトリチャーナの分岐点で工程ごとに追えます。
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作り手の立ち位置も、この歴史の続きです。ローマ4大パスタの原典として参照されるItalia Squisita、生クリーム不使用の伝統派を掲げるMax MariolaとChef Ropia、英国のスーパーの材料に合わせてパンチェッタとバターを使うGennaro Contaldo、母のレシピを基準に理由から説明するChef Jean-Pierre、プロの技術を家庭向けに翻訳するBrian Lagerstrom、再生リスト名を「NOT TRADITIONAL」と明示するAdam Ragusea。同じ「伝統派」でも数字が揃わないことは、同じ「伝統派」でも、チーズの量は倍まで開くと塩を半分に減らし、鍋の火を使わずに乳化させる夫婦で確認できます。
この年表に出てきた皿・道具・作法
- 中世シチリアの島料理:トラーパニ風ペスト / イワシのパスタ / ノルマ / スパゲッティ・アッロ・スコリオ / カポナータ
- トマトを使わない系統:カチョ・エ・ペペ / グリーチャ / ビゴリ・イン・サルサ / ジェノヴェーゼ(ナポリ風) / クアトロ・フォルマッジ / ノルチャ風
- トマト以後:ポモドーロ / プッタネスカ / アラビアータ / ナポリ風ラグー / 茄子のパルミジャーナ
- 20世紀に生まれた・定義された皿:カルボナーラ / ボロネーゼ / フェットチーネ・アルフレード / ウォッカのパスタ / アッサシーナ / ナポリタン / 明太子パスタ
- 手打ちのレーン:タヤリンと白トリュフ / オレキエッテとチーマ・ディ・ラーパ / ジェノベーゼ(バジルのペスト)
- 文献の古さで読めるセコンド:ミラノ風カツレツ(1855年『Gastronomia moderna』に記録) / ヴィテッロ・トンナート(19世紀後半までツナが入っていなかった) / 鶏のカッチャトーラ(もとはトマト不使用) / ビステッカ・フィオレンティーナ(塩・胡椒・オリーブオイルだけ)
年表の中で確定していることは、思ったより少ない。ラガーナが茹でられたかは分かっていません。ジェノヴェーゼがなぜジェノヴァの名を持つのかも分かっていません。カルボナーラの1939年より前は、まだ誰も見つけていない。分からない場所が残っているのは、この900年がまだ閉じていないということです。
